SOMETHIN`ELSE         第6回

     
DAVID S. WARE
 大澤 啓

 テナーの巨人、デイヴィッド・S・ウェアのカルテットは、15年前から今日の最高のジャズバンドのひとつとして活動してきました。私は5年前、フランスで初めて彼のライブを聴いた時、あまりに感動して、随分長く彼の音楽ばかり聴いていました。デイヴィッド・S・ウェアはDIWから多数のレコードも出したにもかかわらず、今まで日本でライブをする機会がありませんでした。私は是非彼が日本でライブを出来るための条件を集めたいと思います。
以下にはデイヴィッド・S・ウェアのバイオグラフィーがあります。 詳しい情報、写真、又は音楽のサンプルはデイヴィッド・S・ウェアのウェブサイトに載っています。?

 

photo : David KATZENSTEIN

デイヴィッド・S・ウェアは1949年11月7日ニュージャージー州プレインフィールドに生まれる。高校時代に出会った熱心な教師たちの影響で、彼の音楽への愛は育まれた。 彼はアルトからサックスのキャリアを始め、後バリトンへ、そして最終的にテナーを自らの表現手段に選んだ。
10代のとき、デイヴィッドはソニー・ロリンズの熱烈なファンであり、60年代の半ばには彼に会うためにファイヴ・スポットやヴィレッジ・ヴァンガードに通い、後にその先輩テナープレイヤーと演奏することになった。二人は70年代を通して、断続的にだが、おりをみてはロリンズのアパートで共に練習した。1966年、若きウェアに循環呼吸を教えたのはロリンズだった。

デイヴィッドはボストンの音楽学校に通い、スタントン・デイヴィス、セドリック・ローソン、アート・ランド、マイケル・ブレッカーらとローカルシーンでプレイしていた。マイケルの回想によると、「デイヴィッドのプレイを聴いたときには、どれほど熱狂したか思い出すね・・・僕らは17か18くらい、彼はものすごい才能の、芸術的で創造的な存在だったね__僕らみんなのインスピレーションだったよ」 ボストン時代、デイヴィッドは、ドラムのマーク・エドワーズ、ピアノのジーン・アシュトン(現クーパー・ムーア)に出会い、メアポジー(「頂点」という意味)モというグループを結成した。
1973年までに、デイヴィッドはニューヨークに移り、ミュージシャンたちの仲間となった。そこには、サム・リヴァース、デイヴィッド・マーレー、バッチ・モリス、アーサー・ブライス、ドン・プーレン、ラシッド・アリ、フランク・ロウがいた。いわゆる“ロフト・ジャズ”のグループの彼らの間で、卓越したテナープレイヤーとしての彼の噂はただちに広まり、結果としてきわめて重要な機会を嵐のごとく経験した。彼はセシル・テイラー・ユニットに加入することになったのである。そこには、マーク・エドワーズ、トランペットのラフェ・マリック、アルト・サックスのジミー・ライオンズがいた。彼はテイラーの伝説的なメカーネギー・ホール・ラージ・アンサンブルモで演奏した。「ウェアのサウンドの独自性とゴスペル歌手のような熱情は、彼が25のとき、忘れもしない、1974年テイラーのメカーネギー・ホール・ラージ・アンサンブルモで演ってたときから明らかだよ(ゲイリー・ギデンズ 『Village Voice』,2001年8月号)」 ウェアはメセシル・テイラー・ユニットモとともにアメリカ、カナダ、ヨーロッパ各国にツアーを回った。そのグループで彼は“ダーク・トゥ・ゼムセルブス”(Enja)という一枚のアルバムに参加した。のちには、ビーヴァー・ハリスがエドワーズに代わりドラマーとなったが、デイヴィッドはハリスのメ360ディグリー・ミュージック・エクスペリエンス・アンサンブルモに参加している。また同じときデイヴィッドは、最高のドラマーアンドリュー・シリルのグループメマオノモに参加しはじめた。
1981年までには、既にメマオノモメセシル・テイラー・ユニットモのメンバーとして、またバンドのリーダーとしてもヨーロッパツアーを何度もおこなっていた。当時のメンバーはハリス、アシュトン、ベースのブライアン・スミスだった。彼はそのときまでには、メメタミュージシャンズ・ストンプモメスペシャル・ピープルモ(ともにBlackSaint)を含むメマオノモの3枚のレコーディングをおこなっていた。
そして1981年、彼はリーダーとして初のレコーディングアルバム、メバース・オブ・ア・ビーイングモ(Hat Hut)をエドワーズ、アシュトンとともに完成した。80年代はじめ、ミルフォード・グレイヴスと演奏した。1985年、自己のトリオのヨーロッパツアーでは、ベースをピーター・コヴァルド、ドラムをルイス・モホロ、サーマン・バーカーが務めた。彼はその後、トランペットのアーメッド・アブダラのバンドメソロモニック・クインテットモに参加し、セルフタイトルのアルバムをSilkheartで録音した。

photo : David KATZENSTEIN

彼のキャリアにおいて、80年代は大きな転機となっている。インプロヴィゼーションのスタイルが、以前の攻撃的で疾走感のあるフリーインプロから、テーマ中心のものへと次第に展開してきた。1988年には、マーク・エドワーズと卓越したベーシスト、ウィリアム・パーカー(当時テイラーのグループの多くに参加していたことで知られる)を迎えトリオを結成、Silkheartでメパッセージ・トゥ・ミュージックモを録音した。1989年、彼がパーカーとレジー・ワークマンにピアニストを探していることを話すと、彼らはFoto di Luca d'Agostino
そろってマシュー・シップを推薦した。
デイヴィッド・S・ウェア・カルテットが誕生した。現在に至るまでメンバーの入れ替えはドラマーだけだった。マーク・エドワーズに替わって1992年にウィット・ディッキーが、そして1996年からスージー・イバラがドラムを務めた。ウェア曰く、「だんだんと、一つのグループを存続させることの価値がわかってきたんだ」「14のバンドのサポートをしてるより、グループを組織化するべきだろ。ここ数十年のジャズを振り返ってみても、それが音楽を発展させる一番のやり方だと感じるね。うすっぺらな表層をすくいとるかわりに、素材を知って参加していくことで、完璧なものをつくるチャンスをミュージシャンは手に入れる」 ウェアは音楽的な理想を妥協するよりは、忍耐を選んだ。また、彼はサポートとして演奏することを拒否していた。「他のミュージシャンたちと演奏することは僕には意味が無い。自分の哲学として、誰かの傘下に入るなんてことは難しいね」
1990年代には、グループが完全に安定していき、デイヴィッド・S・ウェアがサクソフォンの真の「巨人」として評価されるようになった。デイヴィッド・S・ウェア・カルテットは革新的なアルバムの数々を、早いペースでリリースした。Silkheartからメグレート・ブリス・ヴォリュームス 1&2モを、日本のDIWからメフライト・オブ・アイモメサード・イヤー・レシテイションモメアース・クウェイションモメゴスペライズドモを、アメリカのHomesteadとAUM Fidelityからは“クリプトロジー”“ダオモとメウィズダム・オブ・アンサートゥンティモをリリースした。
1997年、デイヴィッドはブランフォード・マーサリスによってColumbiaと契約することになった。「ブランフォードがショー(1995年、フランスのビエンヌ)を見に来てくれたんだ。今までには聴いたことなくって、心から感動したって。彼は本当に熱狂してたよ。」 二年後、ブランフォードが、Columbiaのアーティストのコンサルタントの役職についたときに、ウェアと最初の契約を交わした。「ミュージシャンたちが心配するのは、一旦メジャーレーベルと仕事をしちまうと、自分の音楽をねじまげなくちゃいけないってこと。でもブランフォードは、ヤ何も変えなくていい。自分らしいプレイを続けてくれユって言ったんだ」
1998年には、Columbiaからのファーストメゴー・シー・ザ・ワールドモをリリース。本作は、どのカルテットのレコードよりも、容赦なく力強いものとなった。その後1999年2月には現在までのドラマー、ギラーモ・E・ブラウンが加入。Columbiaからのセカンド、メサレンダードモは1999年10月に録音され、翌2000年5月に発表された。ここでは、ウェアによる美しい4曲に加えて、チャールズ・ロイドのヤスウィート・ジョージア・ブライトユが2曲目に、ビーヴァー・ハリスのヤアフリカン・ドラムスユがアルバムラストに演奏されている。全曲を通じて、彼の全作品のなかでももっとも穏やかな精神を感じる作品である。本作は、常に彼のルーツにあるスウィングへの深い造詣を示している好例である。
Columbiaからの二つのアルバムをリリースした後、2001年2月にはAUM Fidelityがデイヴィッドとカルテットをスタジオに招いた。これらのセッションは、カルテットにおける新たな音の追求へのデイヴィッドの関心が表れた好例であり、マシュー・シップをシンセサイザーに起用した初めての作品でもある。この意欲作メコリドールズ&パラレルズモは2001年にリリースされた。
その後まもない2002 年春、SF Jazz organizationはソニー・ロリンズのメフリーダム・スイートモをデイヴィッドにアレンジさせるべく招いた。このとき7月のスタジオ録音は、2002年10月にAUM Fidelityからリリースされるものである。「ソニーと僕のつながりを示すには最高の機会だよ」ウェアは説明する。「いかにある世代の上に次の世代がつくられていくのか、ジャズっていう音楽の全体の流れの中で世代間の関係がいかに成立してるかってことを示すにはいい機会だね」
デイヴィッドの技術は、ソニーらジャズをつくり上げた上の世代から多大なる影響を受けて生まれたものだが、オリジナルの音からは進展をみせている。さらに、彼の技術はサクソフォンのみに留まらない。マシュー・シップは、作曲家としてのデイヴィッドの才能を披露するために、ThirstyEarのBlue Seriesコレクションにレコード制作への強い希望を表した。そうして生まれたのが、2003年のメスレッドモである。ほとんどの曲で、カルテットに加えストリングスのセットで、ヴァイオリンにダニエル・バーナード・ルーマン、ヴィオラにマット・マネリ、シップがシンセサイザーを担当している。完成した音は、精密で映画的なリズムと主旋律で構成されたものとなった。これは、ジャズにおいて室内学の音を出しながら、クラシックの感覚を如実に表している。いくつかの曲ではウェアはサックスを吹いていないが、そこでは作曲における芸術家としての彼の技術をみることができる。
15年以上ものあいだ、カルテットはヨーロッパとアメリカをツアーしプレイし続けた。驚くほど莫大な量の批評が彼らのライブを賞賛したにもかかわらず、デイヴィッド・S・ウェア・カルテットはライブ音源をリリースしていなかった。それまでの時間を埋め合わせるかのごとく、メライブ・イン・ザ・ワールドモ(ThirstyEar)が2004年にリリースされた。3つの異なるショウの音源をコンパイルしたもので、それぞれドラマーがディスク毎に異なる。ピアノのマシュー・シップ、べースのウィリアム・パーカーは全ての音源で演奏している。
ディスク1は初期の音源で、1998年のスイスのキアッソでのショー、ドラムはスージー・イバラだ。曲目の多くは1998年のColumbiaでのデビューアルバムメゴー・シー・ザ・ワールドモからのものである。このショウの音源は、ディスク1の全曲と、ディスク2と3のボーナス・トラックにも収録されている。
ディスク2は、ハミッド・ドレイクをドラムに、イタリアのテルニでの演奏だ。曲目は1988年から1996年の8年の間に出たアルバムから5曲がピックアップされ入り混じっている。
ディスク3は、現ドラマー、ギラーモ・E・ブラウンをドラムに、イタリアのミラノでの2003年の録音であり、ソニーのヤフリーダム・スイートユのカヴァーを含む。

photo : Luca D'AGOSTINO

「僕らはフリーダム・スイートをヨーロッパ中でくりかえし演ったよ」とウェアはいう。「あるコンサートで、今まである方法で演ってたんだけど、その日はもっとスタイルを崩して演ってみようってことになったんだ。テーマの順序や演奏のしかたも変えてみたんだ。そのコンサートの間、僕たちがプレイしているとき何度も、自分たちが超越的なところに達していたってわかったんだ。ときどきは、どこに達しているかってことを理解できないけど、これは本当に貴重な出来事のひとつなんだ・・・・超越した音楽ってのは、それ自身を超えていく、演奏自体も超えていく、そして精神的な次元に到達する。これは音楽の経験のなかで、究極的なことのひとつだといえる、つまり、普遍に到達し、その宇宙的な実在はわれわれすべてを結びつけてくれる。このことでわれわれ、つまり、この地球にすむすべての人間存在が、本当に兄弟姉妹になれるんだ」
 
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