Jazz.Hot.Society. 
   
BLIND FOLD TEST
に関する考察
   
見富 栄一
私がJAZZを聞き始めたのは昭和24(1949)年、17才の時です。
当時の東京は敗戦後の混乱と食糧難の時代で昭和25年まで米味噌塩が統制で食糧難の時はサツマイモ、トウモロコシ等が主食の時代でした。
大卒の初任給が¥7500それに対し輸入盤レコードは¥2500もしていました。
ラジオで聴いてそのレコードが欲しくてもリアルジャズはほとんど無く、わずかに神保町・村岡さんのリズム社や新宿のマルミで見つけて、一枚買うのに500円位の手金を打って買ったりしたものです。
50年代の10年間は一人BLINDと称して、手持ちのレコードで目隠しをして心眼で当て研究しました。

1959年ごろ新宿「きーよ」にて
この時代にSロリンズのレコードを持つ事は最先端でした

 

 50年代末新宿にJAZZ喫茶・ヨットが出来、「何かやってくれないか」と相談され私が好きでやっていたBLIND FOLD TESTをやれば熱心な学生等が集まるだろうと引き受けた。これが日本で初めての試みです。
当時常連だった植草甚一さんがSJ 誌に書いたので有名になり、関西から児山紀芳さん一派がトラックで乗り込んで来て「東京では大変な事をやっている」と言われ話題になりました。

BLIND FOLD TESTと云うのはアメリカでJAZZ評論家のLeonard Featherがミュージシャン達に1950年代に行ったのが始まりであり、
そもそもブラインドと云うのは目隠しと云う意味で、ジャヤケットを見せずに、演奏しているミュージシャンが誰であるかを当てると云う事で、ブラインド
を行いながら聞きますと、自ずからそのミュージシャンの名前やフレーズも良くおぼえます。

 

 



いそのてるお氏からは「ブラインドの帝王」と呼ばれる

60年代はJAZZ喫茶の全盛期でSONNY CLARKのクールストラッティン、BUD POWELL のクレオパトラドリーム、ART BLAKEY & JAZZ MESSEGERS のモーニン
などのA面が一番リクエストされていた。こうしたヒットしたアルバムをブラインドとして出題すると解答者がウーンと納得する問題が作れて良い。
そこでこれらのアルバムのB面、例えばクールストラックティンの2曲目DEEP NIGHTでピアノとトランペットが誰であるかと云う出題、
この演奏はイントロからソニー クラークがタッチの良いフレーズでトリオ演奏が始まる、そして後半に(tp)(as)のソロが出て来るのでリスナーは少し迷う、(tp)のアートファーマーはクリフォード ブラウニー系だが時折チェットベイカーを思わせる演奏をし誰であるか迷います。
そして正解がクールストラックティンのB面2曲目DEEP NIGHTでしたと明かされると参加者は納得します。

こうしてヨットを皮切りにきーよ、渋谷スイング、キャット、、びざーる、イントロ、ローディプラザ等々と行脚し、様々な渾名を頂き『ブラインドの帝王』で落ち着きました。

 


84年〜86年、有楽町ローディープラザにて講座を受け持つ

 

 

前記のように、さまざまな場所で行って来ましたが一番印象に残った所は新宿キャットでは周りの皆様が私の顔を見ながらBLINDしましたが私がウイナーズ取った事、そして澁谷スイングでは私が目隠ししてマナ板のコイになると云うブラインドショーも面白かった。

 

 

 

<このページのトップへ戻る>